先日、映画『国宝』を観てきました。
余韻から抜けつつあるので、未来の自分のために感じたことを残しておこうと思います。
ちなみに具体的な映画の内容に触れるつもりはありません。
ネタバレ的な記事にはならないはずなので、どうかご安心を。
映画を観終わってから感情を整理するのに時間がかかってしまい、誰とも感想を共有したくないというか、言葉や文字に起こしてしまうのがもったいないような気がして、なかなか咀嚼することができなかった。
この一週間は、舞台裏の取材記事など『国宝』にまつわるもの読み漁り、海老蔵さんのYouTubeや完成報告会の映像などを見て、この作品に携わった方々の想いを知ることで、自分なりに向き合い方を模索しながら、
なんとも形容し難い、内から湧き上がる自然な反応にじっくりと浸っていた。
予告映像から伝わる独特な世界観。
King Gnuの井口理さんの歌声が、天から降り注がれているような、神秘的かつ悟りの境地をも想像させる。
実はずっと気になっていたけど、「これを見てしまったら、もう後戻りできなくなってしまうのではないか」と恐怖すら感じてなかなか劇場に足を運べずにいた。
15分前に映画館に到着すると、平日のお昼の上映にも関わらずほぼ満席。
噂に聞いていた通り、3時間はあっという間だった。
映画が終わり主題歌が流れた瞬間、ハッと自分が呼吸していることを思い出した。
「・・・あぁ、私、今生きているんだ」
作品の世界観に入り込んでいたことに気づいて、溢れる感情に思考が追いつかず、ただただ自分の「生」を感じていた。
鍛錬を重ね、道を極めた者だけが踏み入ることを許される、道徳や人智を超えた領域。
吉沢亮さん演じる立花喜久雄の生き様は、儚く美しく咲き誇る桜のようで、極寒の中で煌めき舞う粉雪のようにも感じた。
鑑賞中は喜久雄の心の灯火が、震えながら燃え続けているのを、じりじりと痛いほどに感じていた。
他の作品に例えるのであれば、オペラ座の怪人のような、トッド・フィリップス監督の『ジョーカー』のような・・・
いや、どれも違う気がするけれど、その世界の神や魔物に取り憑かれた狂気的な人生という要素は重なるところがあるのかもしれない。
3秒でスクロールされ、30秒で消費されていく現代に、3時間にも及ぶ素晴らしい映像作品が存在すること、そして映画館で上映中の今この作品に触れることができた幸せを改めて噛み締める。
原作はストーリーも切なさも少し違うと聞いたので、一人で受け止める覚悟ができたら読んでみたい。